
朝食の終わり頃、祖母が湯のみを両手で包む姿を、私はよく眺めていた。
湯気に包まれたその手つきは、とても静かで、どこか時間を止めているようにも見えた。
祖母は多くを語らず、ただそこに座っているだけだったが、その存在は家族にとって欠かせないものだった。
台所では、母が片付けを始め、まな板の音とは違う、水の音が響き始める。
割烹着の背中は、朝と同じように迷いがない。
父は出かける準備を整え、ポマードの匂いを残して玄関へ向かう。
その一連の流れが、家の朝を完成させていた。
ちゃぶ台の上には、使い終えた茶碗と湯のみが残る。
それらを見るだけで、ついさっきまで家族がそこに集っていたことがわかる。
物は語らないが、確かに時間を留めている。
祖母は最後に湯のみを置き、ゆっくりと立ち上がる。
その動き一つ一つが、生活そのものだった。
派手さはないが、確かな重みがある。
その姿を見て育ったことが、今の自分の土台になっているのだと、年を重ねてから気づいた。
昭和四十年代の朝は、静かで、温かく、確かなものだった。
湯のみのぬくもりの中に、家族と過ごした時間が、今もなお、変わらず残っている。
明るい気持ちになる言葉:
やさしさは、言葉よりも長く記憶に残る。

